The History of J.L.Stifel & Sons

2nd Generation
Louis, William, George
3人の息子たち

今回は、Stifel家の第二世代に焦点を当ててお送りします。
Wheelingに到着した一代目、Johan Ludwig Stifelには、実に11人の子供が居ました。

当時の事なので、生まれた年に亡くなってしまう子供達もいましたが、その中で3人の子供はStifel社や、自らの事業で成功したようで、町の歴史を書いた文献に登場しています。

Louis Carl Stifel

1838年9月30日生まれ。

初代JL.StifelはLouisの前にも二人、男女の子供をそれぞれ設けていましたが、数か月で亡くなってしまっていました。

1897年12月22日に亡くなっています。

 

 

William Frederich Stifel


1840年7月10日生まれの次男です。

1930年2月に亡くなっているので、実に90歳近くの長命であったようです。

この写真も、STIFELのブーツマークの花瓶とともに撮られており、ブーツマークが登場した1900年以降、おそらくかなり晩年になって撮られたと思われます。

実に、洒落が効いている構図で見ていて微笑ましくなります。

 

1859年、LouisとWilliam兄弟は父の事業に参加します。

そして社名もJ.L.Stifel & CoからJ.L. Stifel and Sons, Incと改められました。

1866年ごろから、徐々にプリントの工程がそれまでの人力によるブロック、要するに「ハンコを使ったプリント」から近代的なシリンダーを使ったプリントに少しづつ置き換えられていきます。

1870年代にはキャラコのプリント事業は順調で、アメリカでも有数の大きな工場だったそうです。

さらに、そのキャラコは輸出され、遠くアフリカでも人気であったと複数の資料に記載されていました。

 

1880年ごろ、Stifel社はニューイングランドの会社より、蒸気機関で動くプリント機を購入します。

ローラー状のシリンダーにはプリントの柄が刻まれています。

 

左はサークル柄、右はキャラコでもありそうなフローラル柄とでも言えば良いのでしょうか。

それまで、熟練職人の腕に頼っていたプリント工程が機械に置き換えられ、安価に大量に、そして何より、ストライプ状などの柄でも問題なく作れるようになりました。

この時にいたって、いよいよ「Wabash」登場の下準備が出来たことになります。

左は1950年ごろの写真ですが、プリントの方法には大きな変化は見られません。

シリンダーはバットに浸されながら、送られてくる生地にプリントし、そして、そのバットの染料や抜染剤を人が継ぎ足しています。

この抜染剤(Acidと英文ではかかれています)が、銅製のシリンダーを痛めるため、徐々に柄は不鮮明に、にじんでいったそうです。

最終的には、シリンダーを交換していたのでしょう。

同じWabashなのに、微妙に大きさが違ったりという、いわゆる「ロットぶれ」が起きていた原因はここにあるようです。

 

 

 

 

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