The History of J.L.Stifel & Sons

3rd Generation
Edward, Henry, Arthor
偉大なる"Uncle Ed"

今回は、Stifel家の第三世代の中でも、今も町にその名が多く残っているEdwardに焦点をあててお送りします。

第三世代は、他にも、Henry、Arthorと居るのですが、その功績・風貌からか、今も多くの資料が残るEdward氏のみで、十分なボリュームになってしまいましたので、2回に分けてお送りします。

Henry、Arthorの二氏および、同時代のStifel社に関しては、次回お送りします。

 

 

Edward William Stifel

家族とともに・左は若き日のEdward W Stifel Jr.

1869年12月19日生まれ。第二世代・Louis Carlの長男で、名実ともにStifel社絶頂期を支えた人です。

その栄華は、現在、Art Centerとして利用されている邸宅を見ても往時が偲ばれます。

 

左は1916年の広告。右は、子供たちの風貌や建物からおそらく、1912年ごろ撮られた写真だと思われます。

このとても太い右手中指を見た瞬間、Stifelのアドにたびたび登場するランタンを持ったおじさんを思い出しました。

単なる、他人の空似かもしれませんが、案外、経費節減で重役自らの出演だったのかもしれません。

 

 

Edemarと名付けられた邸宅です。
Stifel家は代々、工場があったWheelingの北に住んでいましたが、1910年、Edward Srは改めて、少し離れた場所にこの邸宅の建築を始めました。

2年の歳月の後完成した邸宅は30の部屋、9つのバスルーム。
大きな庭にテニスコート、プールまで備えています。

Edemarの名は、彼の子息、
Edward,Emily, Mary
この三人の名前からつけられました。

Edwardの死後も、建物は後の世代に引き継がれていましたが、1976年にはOglebay Instituteに譲渡され、現在もArt Centerとして活用されています。

この時も現代アートの展示や、子供たちのバレエの発表会などが行われており、現在も、Stifel家の地域コミュニティへの影響が偲ばれました。

1939年、社員から送られた「勤続50年」?を称える本があったので、1889年ごろから事業に参加していたように思われます。

1942年のニュースでは一番左にChairmanとして登場しています。
おそらく、 社長を歴任したのち、会長職についていたのではないでしょうか。


Edward Srは、1930年代から、ウェストバージニアに飛行場を誘致する活動をしていました。

いくつかの委員会の一員、または議長として活動を続け、1939年には飛行場の建設は開始されました。

第二次大戦による計画延期などで、予定は遅れましたが、1946年11月1日にWheeling-Ohio County Airportは完成しました。

写真はそのパンフレットです。

その隣にある生地は驚きの飛行機柄のインディゴ染めらしき生地ですが、詳しい事はわかりません。

この当時、すでにStifel社はインディゴ染めおよびプリントをほとんど止めていたという記述もWheelingで見つけたいくつかの資料に見られます。

ただ、そうは言ってもあくまで、現在作られた社史なり資料ですので、本当のところは藪の中です。

この空港建設を待ち望んでいたかのように、彼は1948年5月15日、永眠します。

 

 

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