The History of J.L.Stifel & Sons

3rd Generation
Edward, Henry, Arthor
Wabash Stripe そしてArmy Navy E Awardへ

今回は、Stifel社が蒸気機関による連続染色を始めたあたりから、ブーツマークの登場。

市場の変化により、インディゴ染色の縮小、Sanforized事業への方針転換、そして各大戦による戦争特需といった、激動の時代をお送りします。

 

 

 

Henry G. Stifel

1872年8月6日生まれ。

第二世代、Louis Carlの次男、つまり前回紹介したWilliamの弟です。

没年が早く1939年。資料にはあまり登場せず、1919年、第一次大戦からの帰還兵を祝ったセレモニーの実行委員であったことがわずかに確認できています。

 

Arthor Clarence Stifel

1882年12月11日生まれ。

第二世代、Williamの子。

おそらく、Williamの後を継いで社長に就任していたようで、1940年代、第二次大戦での功績をたたえるArmy Navy E Award受賞時には社長として複数の資料に記載されています。

1970年没。

さすが、長命のWilliamの子ですが、彼自身、Stifel社の閉鎖を目の当たりにしていたことを思うと心が痛みます。

 

Trademark ブーツマークの登場

1903年に商標登録されたブーツマーク。
もともと、Stifelとはドイツ語でブーツを指したので、ファミリークレストにもブーツを持ったライオンが描かれていました。

その、ブーツを自社のトレードマークにも採用し、生地の裏面に自社製品である事を証明するため、プリントを入れ始めます。

ただ、ポルカドットにも裏面にブーツマークが無いものもあります。

これが果たして、連続染色機が導入されるも、まだブーツマークが採用されていなかった時代のものなのか、はたまた他社でも似たような生地が作られていたためかははっきりしません。

 

シリンダープリント開始
様々な柄・バリエーション豊富なテキスタイル

資料によれば、1920-30年当時のStifel社には1500の柄・色が保管されていたということです。

実際、当時の柄を集めた見本帳には、Wabashをはじめとして花、トランプ、大小さまざまなポルカドットなど、多様な柄が残っています。

まず、この一枚目は、おそらくまだ銅製シリンダーが登場する前、つまりウォバッシュなどが登場する前にプリントブロックで作られていたころの柄です。

当時は、アフリカに多く輸出されていた、という記述があり、たしかに、その後のシリンダープリントと違い、独特の雰囲気があります。


いよいよ、20世紀初頭、蒸気機関によるシリンダーを使った連続プリントが始まって後の柄です。

有名なウォバッシュ、そしてアドではあることが確認されていたトランプ、さらには、Stifelの冊子の表紙にも使われている美しい小花柄です。

やはり、ウォバッシュが普遍的な柄であった事が良くわかります。


次にポルカドット4態です。

一口に「ポルカドット」と呼んでも、大小さまざまな柄があったことがわかります。


さらに、本来であれば、糸の段階で黒・白をよって作る「ヨリ杢生地」に似せてプリントで柄を表現したものもあります。

これは、Stifel社がインディゴ染めだけではなく、黒の染色も行っていた可能性が高い事を示しています。


この資料の左上、第二世代のWilliam Frederich Stifel、第三世代のEdward、Henry、Artherが連名で示されています。

当時、彼らが日々顔を合わせ、実際に仕事をしていたことが想像されて興奮します。

 

インディゴ染色の終焉・Sanforizedへの転換

1930年ごろになると、時代の変化、複数の資料には「ジャズエイジの終焉と共に」とあるように、需要も変化し、インディゴ染めの生地は、突如受け入れられがたくなっていったようです。

はたして、それがなぜなのかは、今となっては想像の域を出ませんが、何にせよ、Stifel社も事業の大転換を強いられました。

そこで、Stifel社が目をつけたのが、1928年頃には既に特許が取られていた防縮加工・Sanforiezd技術でした。

資料には1933年より、ライセンスを取得し、Sanforized事業に乗り出したとあります。

Sanforized自体、特許が取得された後も、一部Arrowなどのシャツに使われる以外は広がりを見せず、当時はまだ、一般的とは言えない技術だったようです。

その後、1934年には、販売J.C.Penney/織布Arwin/製造Globeの一大プロジェクトを組んでワークウェア業界デビューを図ったという記述もあります。(ジーンズハンドブック8版・繊維流通研究会)

これらからも、Stifel社がかなり初期の段階からSanforizedに取り組んでいたと思われ、また、それが後に、テキスタイル業界で一番にARMY NAVY Productuion Awardを受賞するに至った原動力になったのではないかとも推測できます。

一方で、現在も絶大な人気を誇るWabashなどは30年間ほどしか生産されていなかったと言うことにもなります。

 

 

ARMY NAVY Production Award

第二次大戦中、戦争に大して多大な功績を残した産業界に贈られたARMY NAVY Production Award。

BIGYANKのReliance社も贈られている同賞ですが、テキスタイル業界ではStifel社が1943年、一番に受賞しました。

1940年ごろから、生産設備のほぼ9割まで、軍需向けに転用し、おもに生地の染色と仕上げ加工を行っていました。

写真は上からペナントを贈られた時の集合写真。

セレモニーで使われたパンフレット。

当時の社長、Arthor氏がセレモニーでスピーチする姿です。

このように、1900初頭から30年ごろまでインディゴ染色とその連続プリントが可能に成ったことにより一大興隆を迎えたStifel。

そして、その後取り組んだSanforized技術とも相まって、戦争特需によりわが世の春を迎えていた1943年。

第三世代はStifel社の歴史においても、一番大きく会社が成長した時代でした。

その一方で、戦後、同社はグローバル化の波にもまれ、テキスタイル産業自体の斜陽化にのみ込まれて行きます。

次回、第四世代、Stifel社終焉の時にてそのあたりの話はしたいと思います。

 

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